教室の入口へかけてあったベージュのダッフルコートをエルマーは乱暴に抜き取った。
「見ろよ、ほら。思った通りだ。ここにぼくのイニシャルがあるだろ?」
 襟のタグに刺繍で文字が綴られている。エルマーは得意満面に教室を突っ切った。一番後ろの席を陣取っていたジェイコブの机へコートを投げ出す。
「みんな聞けよ。このコート。ぼくの母さんが教会へ寄付したものなんだ。だけど、今はこいつが着てるよな。何でだろう?」
 次の瞬間、ジェイコブの拳がエルマーの鼻を押し潰していた。
	
 ジェイコブ・アドキンズは校長室で母親の到着を待っていた。
「今、きみとエルマー君以外の生徒は、授業を受けている。だが、きみは、ここで私と向かい合わせに座っている。何故だかわかるかね?」
 初等科の問題児が頷くのをグラント校長は胡散臭げに眺める。
「エルマーをぶん殴った」
「何だって?」
 校長は耳に手を添え、わざと前屈みになった。
「……エルマーをぶん殴ったからです」
「その通り。しかし、正確ではない。『エルマー君に暴行を加え、全治二週間の骨折を負わせたからです』と申し立てるべきだろう」
「二週間?」
 ジェイコブは舌打ちする。
「そう。さっき病院から連絡があった。エルマー君のお母さんは厳罰をお望みだよ」
「……俺。刑務所に入るの?」
 そばかすの浮いたジェイコブの顔が弱気に歪んだ。色の褪せたジーンズを履いた足を交互に揺する。スニーカーは痛み、発売元を判別できない状態だ。
「きみは十才だ。残念だが、そう一足飛びにはできない。しかし、このままでは、その日も遠くはないだろう」
 突然、扉が開き、女が飛び込んでくる。ジェイコブを見るなり、一気呵成に歩み寄り、彼を平手で引っ叩いた。
「まあまあ。お母さん。暴力はいけません」
 おざなりに校長が間へ入る。
「これは取り込み中でしたかな?」
 声に振り向いたジェイコブを含む三人は、半分開いているドアから室内を伺っているスーツ姿の男に出くわした。
	
「そんなお金。とても払えません」
 治療費の金額を聞いたジェイコブの母親、エイミー・アドキンズは身を乗り出した。
「この子の給食費だって市の補助なんですよ!」
 エイミーは、未婚である。公道沿いにある簡易食堂のウェイトレスとして働き、生計を立てていた。
「校長先生。ここは、私が説明したほうがいいように思います。よろしいですか?」
 母親とジェイコブの前には、校長の他に先刻の中年の男が座している。
「そうですね。専門家が話したほうがいい。よろしくお願いします」
「それでは、お言葉に甘えましょう。私は、エドガー・バジョットと申します。市の福祉委員を任されています。早速ですが、お母さんの窮状は、理解しているつもりです。そこで市の行っている『更生プログラム』への参加を提案したいと考えています」
 パジョットはエイミーに名刺を差し出した。
「それって、何ですか? まさか感化院じゃ?」
 名刺を矯めつ眇めつしながらエイミーは男を見やる。
「いえいえ。そうじゃありません。教育的かつ実験的なプロジェクトです」
「実験?」
「ええ。工業地区の廃校をご存じでしょう? あちらを問題児童の更生施設として再利用する躍進的事業です」
 エイミーは曖昧に頷いた。
「更生施設といっても学校と同じです。自宅から通園して授業を受け、帰宅する。開示される可能性のある書類に記載されることも、まずないでしょう。つまり、ほぼ不利益はないわけです」
「でも、エルマーって子の治療費は?」
「その点も運が良かった。エルマー君のご両親が利用されたのは、市営の医療施設でした。このケースであれば、一時的に市が仲介することが可能です。治療費は、お母さんの余裕ができた時に少しずつお支払いいただくこととしようじゃありませんか?」
 シャツを掴んでいる息子の手をエイミーは軽く叩く。
「そうなんですか。……それだったら、悪いお話ではなさそうですけど」
 エイミーは首を傾げていた。
「承知されるということでよろしいですな。ご理解いただけて良かった。では、とりあえず、通園期間は二週間としましょう」
 クリアーファイルに挟まれたパンフレットを残し、福祉委員は席を立つ。
「ジェイコブ君、こんなに素敵なお母さんを困らせてはいけないよ。頑張りたまえ!」
 ジェイコブは、バジョットの背に舌を突き出していた。
	
 工業地区にあった工場は、そのほとんどが不景気の煽りで閉鎖している。現在でも操業している施設の数は片手に余った。ジェイコブは、バスの窓越しに人気の絶えた建造物を追う。金属のぶつかり合う音が、どこからか響いていた。まるで断末魔の悲鳴である。
 その閑散とした佇まいの中に市の更生施設は存在していた。
「これがクラス番号、こっちが教科。この通りに授業を受けていくわけ。教室へ行ったら用紙に先生からサインをもらって、全部終わったら、この箱に戻しといて。だけど、最初はカウンセリング室へ行くのが、ここの決まり」
 クッキーの屑を用紙に落としながら受付の女はジェイコブへ説明する。
「……私の話してること、わかるわよね?」
「うん」
「カウンセリング室は、廊下を右へ折れて二つ目のドア。今の時間だと『キャサリン』って札がかかってるから」
 ジェイコブの足の下で傷だらけの廊下が軋んだ。対して壁は塗り直したばかりなのだろう。白く滑らかである。
	
 カウンセリング室は、ほどなく見つかった。
 新品ではあるが、安っぽい事務用品に埋め尽くされた部屋をジェイコブは眺める。書類の空欄を個人情報で埋めるよう指示され、知能検査、ロールシャッハが行われた。
「保護者は? 一緒に来なかったの?」
 キャサリンは、ジェイコブの母親より大分、年嵩に見える。老斑の浮いた掌を机の上へ広げていた。
「……仕事が終わってから来ます」
 目を細め、爪に塗ったマニキュアを検分している。
「あら、そう」
 記入を終えた書類をジェイコブは、机の天板へ載せた。キャサリンは、嫌々といった風情で書類を摘み上げる。
「ジェイコブ・アドキンズ。この結果からするときみは、ごく平均的な児童ね。ものすごく平凡な四学年生ってわけ。『メイフラワー学園』へようこそ!」
 赤い爪でドアを指差していた。
	
 用紙に記載されていた教室では、既に授業が始まっている。
「……ああ、そうか。初日だからね」
 老齢の教師は勝手に解釈し、用紙へサインしてくれた。これに味を占めたジェイコブは、次の授業も終了間際に当該教室へ出頭し、教師のサインを受領する。繰り返しているうちに昼食の時間を迎えていた。
	
 ハンバーガー、ハッシュドポテト、ピーナツバターで和えたセロリ、ポテトサラダ、茹でたブロッコリー、フライドチキン、豆のスープ。
 見慣れたメニューの中からトレイに惣菜を盛っていく。カウンターの出口でジェイコブはピーナツバターのパッケージを二つ掴んだ。
「グレープゼリーとピーナツバターはひとつずつ」
 食堂の職員から咎められる。
「ゼリーいらない」
「決まりなの。ピーナツバターが一個、グレープゼリーが一個」
 ジェイコブのトレイに葡萄の図案のパッケージが投げられた。
 ピーナツバターを戻すジェイコブの脇から手が伸び、グレープゼリーがひとつ消え去る。ジェイコブは目だけ動かし、それを追った。顔の半分を眼鏡に占拠された同年代の子供が他所を向いている。
 子供は、順番が来ると新たにピーナツバターとグレープゼリーをトレイへ放り、列を離れて行った。職員は気付かず、ジェイコブを睨みつけている。
	
『メイフラワー学園』はハイスクールの建物を再利用している。窓際のテーブルへトレイを載せようとしたジェイコブは肘を押された。
「さっきは黙っててくれてありがとう。あっちへ行こう。みんなに紹介する」
 先刻のゼリー泥棒である。案内されたテーブルには、ジェイコブと同年と思しき子供が二人、既に席へ着いていた。
「座れよ。ミスター・ノックアウト!」
 一人は、浅黒い顔に歯ばかり白い。急き込むような早口で話しかけてきた。
「ノックアウト?」
「みんな、そう言ってるぜ。気に食わないヤツの顔を拳でぶち抜いたって。なあビリー。みんな言ってたよな?」
 もう一人は、食事に夢中の肥満児である。
「うん。その子の頭の後ろから拳が突き出したんだよね? 大穴が開いたんだろ? ……痛かっただろうな」
「バカ! 痛いじゃすまないぜ。きっぱり死んでる」
 ジェイコブは席に着きながら二人の顔を眺める。
「……まさか。信じてないよね?」
「何で?」
 隣の席に腰を下ろすゼリー泥棒は首を傾げていた。
	
「何を言ってるか、よくわからなかったね?」
 学園長と三者面談を終えたエイミーは欠伸を漏らしている。
「今日、早番だったから、先生の前で危うく寝そうになっちゃった。……ねえ。上手くやれそう?」
「心配ないよ」
 ジェイコブは母親に請け合った。
「本当? いつもそう言うけど、あんなことになったじゃない」
「……エルマーが悪いんだ」
「そうかもしれないけど、殴ったりしちゃ駄目なのよ。そのせいで私まで、あなたを叩かないといけなかったんだから。わかるでしょ?」
 ジェイコブの頬をエイミーは撫でる
「痛かった? ごめんね」
 彼女の掌は洗剤で荒れていた。
「うん」
「私も頑張るから、ジェイコブも頑張って」
 エイミーは大欠伸しながら鞄を探り、紙袋を取り出す。
「家に帰ったら、すぐに眠っちゃうと思うから。夕飯は、これを食べて」
「わかった」
 袋の中には、様々な揚げ物の残りカスが入っていた。すぐさま手を突っ込んでいる息子を見やり、エイミーは微笑む。
 芳ばしい匂いが辺りへ漂っていた。
	

※表題の「ビッツ」は揚げ物カス(天カス)のことです。 [2014年 3月 21日] (c) 2014 ドーナツ