それは大規模なレイオフがあった年で、母は職探しに奔走していた。しかし、資格のない未亡人に世間は冷たい。困窮した母は、ぼくを祖父に預ける決心をした。
 夏休みが終わる一週間前、ぼくは、この小さな田舎町に足を踏み入れる羽目になる。駅を降りたぼくを待っていたのは、オンボロの軽トラックと時代遅れのスーツを着込んだ老人だった。
「おまえ。トムか?」
 頷いたぼくに老人は顔をしかめる。
「返事は『はい』か『いいえ』だ。俺のことは『お爺さん』とでも呼ぶんだな」
「はい。お爺さん」
 ぼくは腹の中で『クソ爺』と罵っていた。
	
 駅前に店らしい店はない。青い穂が続くトウモロコシ畑をぼくは車の助手席から眺める。
「お母さんは元気か?」 
「うん」
 トウモロコシの茎をコンバインが次々に薙いでいた。
	
 ダイナーで食事を済ませたぼくは、ようやく祖父の家の敷居を跨いだ。
「この部屋を使え」
 小さな飾り物が並べられた女の子の部屋である。おそらく母が使用していたのだろう。この閑散とした家の中にかつては家族の営みがあった。
 ぼくは不思議な気持ちになる。
「荷物を置いたら、こっちへ来い」
 祖父は車を停めたガレージへ歩いて行く。脇に犬小屋が見えた。
「犬がいるの?」
「そうだ。ジェイク!」
 鋭い声に姿を現したのは、大型のマスチフ犬である。ぼくを一瞥し、欠伸をしていた。
「散歩に行く。ついて来い」
 犬も祖父と同じくらい老いている。土が剥き出しの道へぼくと祖父と犬の影が長く伸びていた。
	
「どこまで行くの?」
 ぼくの言葉に祖父は前方を指差した。崖が階段状に刻まれている一角が伺える。
「あそこ何?」
「石切り場だ。もう使われていない」
 白い石が最後の日差しを受けて輝いていた。
「何で?」
「水が上がってくるようになったからだ。ポンプで水を汲み出しながらじゃ、金がかかって採算が合わない」
 祖父は眩しげに目を細める。
 興味をなくしたぼくはボールを投げ、ジェイクに拾わせようと躍起になった。しかし、ジェイクは他所へ顔を向けている。
「ジェイクは人間のチビと馬鹿な遊びはしない」
 苦情を申し立てるぼくに祖父は、そう言った。ぼくは声に出し、『バカ犬』とジェイクを罵る。
「仲良くしておいたほうがいい。明日から、おまえ一人でジェイクを散歩させるんだ」
 ぼくは口を開けるくらいが関の山だった。
	
 祖父は有言実行の人で、ぼくは翌日から朝の四時に叩き起こされた。
「石切り場まで行くんだ」
 朝食の前に往復二時間も歩かされる。
 幾度も中途で済まそうとしたが、大地に尻を据え、ジェイクは梃子でも動かない。道行に大人しく付き合うのが最も楽な対処法だった。
 夕方も同じことで四時になるとジェイクは遠吠えを始める。ぼくは逃げ出したかった。だが、田舎の遊びを知らなかったし、行くところもない。
 結局のところ、ぼくは十歳の子供だった。大人の意向がすべてであり、権利はないも同然である。
 祖父は料理の素養がなかった。毎日ダイナーへ通い、向かい合わせに黙って食べる。
 この時、ぼくは知らなかったが、祖父の収入源は従軍の際の傷病者年金だった。
	
 その夕方、ぼくはジェイクと石切り場への道を歩いていた。
 ジェイクに芸を仕込もうと餌をちらつかせる。しかし、代償として糧を得るという一般的な仕組みを『バカ犬』は理解しようとしなかった。
 ぼくの叱責を無視していたジェイクは、急に立ち止まる。つま先立ちになり、口を閉じていた。
「何だよ?」
 空を光の粒が流れている。
 それは軌跡を描き、真っ直ぐに石切り場へと突っ込んだ。目も眩む光と轟音が辺りを劈く。
	
 落下の振動でぼくの体まで震える。煙が立ち上っていた。
 二、三歩進みかけ、振り向くとジェイクは、その場に留まっている。
「ジェイク!」
 促しても、ついてこようとせず、ただ煙を見詰めていた。
 朝に夕に石切り場への道を連れ立ち、歩いてきたのである。それなのに今は動こうとしない。ぼくは意地になって数ヤード歩き、振り向いた。ジェイクは踵を返し、祖父の家へと走り去って行く。
「バカ犬め!」
 ぼくは訳もなく悲しくなり、石切り場に向かって駆け出していた。
	
 漏斗状に掘削された石切り場の底には水が溜まっていた。
 底は見えない。中央に残された石の塔が島を形成していた。その上に見覚えのない物体が突き刺さっている。
 かつては、どんな姿をしていたのだろうか。
 煤けて黒くなった表面のところどころは銀色だ。舳先の折れた一ヤード(一メーター弱)ほどの丸みを帯びた物体である。
 ぼくと物体は湧き出た水で隔てられていた。その水面に丸いものが揺らめいている。手を伸ばせば、届きそうだ。
 ぼくは石の縁につかまりながら、指で触れようと足掻く。泳げば良かったのかもしれない。しかし、プールでの水泳経験しかなかったぼくは、この人口の湖が恐ろしかった。
	
 ぼくは掌の中の球を眺める。目的のものを手にし、満足だった。
 野球ボール程度の大きさの、それは透き通り、内側に何かが貼りついている。粘性のある液状の物質だ。明滅し、笛のような音を発している。
 首を捻っていたぼくの耳に水音が響いた。水から飛び出したものは勢いよく落下してくる。足元に灰色がかったゼリー状の物体が震え、蠢いていた。
 ぼくは叫び声を上げ、後ずさる。離れ、しばらく様子を伺った。手の中の球は激しく点滅し、さきほどよりも大きな音を立てている。『光る水』は跳ね、透明な内側で暴れていた。
 灰色の物体は、体を伸縮させ、移動を試みているかに見える。しかし、動きは次第に鈍くなり、終には微動だもなかった。
 枝を拾い、突いてみるが反応はない。恐る恐る近付いたぼくの目の前で干からびていく。
「……何だよ?」
 得体のしれない『それ』は死んでいた。
 ぼくは父の遺体を思い出す。死化粧された父の肌は灰色に黒ずみ、病苦で体は縮んでいた。父には違いない。だが、もう父ではなかった。
「帰ろう」
 顔を上げたぼくは思わず口を開ける。島に屹立していた銀色の何かは傾き、白い岩盤へ倒れた。崩壊の衝撃で四散した破片が辺りを切り裂く。そのひとつが鋭く尖った刃と化し、こちらへ迫っていた。
 次の瞬間、ぼくの体は、灰色の柔らかいものに包まれる。不可思議な覆いとともに弾き飛ばされ、叩きつけられた。
	
 おそらくぼくは『光る水』の入った球を抱いたまま気を失ったのだろう。目を覚ますと病院のベッドの上だった。
「どうしてちゃんと面倒見てくれないの? 父さんは性格破綻者よ!」
 母の声が聞こえる。相対しているのは祖父だった。
「奥さん。気付かれたようです」
 恰幅のいい中年の男が母を促す。母は名前を呼びながら、ぼくを抱き締めた。
「苦しいよ」
 ぼくの抗議も空しく、母は腕に力を込める。ぼくの意識は再び遠のきかけた。
	
「本当のことを言いなさい!」
 事の顛末を話したぼくは母に叱責される。
「まあまあ。奥さん」
 中年の男は保安官だった。母を宥め、二人で病室を出て行く。
「嘘をついてると思ってるの?」
 ぼくと祖父は部屋に残された。
「俺の血筋に法螺吹きはいない。だが、おまえが本当だと考えていることが事実かどうかは別の話だ」
 つまり信じていないということだろう。ぼくは寝返りを打ち、祖父に背を向けた。
「おまえのボールはジェイクが預かってる」
「ボール?」
「ああ。後生大事に抱えていただろう」
 ぼくは祖父のほうへ振り返る。
「野球のボールだ」
 すっかり落胆し、ぼくは薬の作用で眠ってしまった。
	

[2014年 3月 30日] (c) 2014 ドーナツ