《始》
 いまだ人という化け物に至れず
 現世をさまよう
	
▼小豆洗いという化け物がいる。

 湯船に浸かるといつもその音がした。
 籠の中で小石を揺するような繰り返しが浴室を満たす。たちまち眠気が差し、幾度か溺れかけた。心配した母は、家中に札を貼る。
 いつしか怪異は消え失せたが、灯台を仰ぐ俺の耳はその震えを覚えていた。
	
▼一反木綿という化け物がいる。

 窓を白いものが過る。見る間に隣の庭へ流され、子供の悲鳴が上がった。
 見れば芝生にシーツが広がり、端から小さな靴を履いた足が伺える。とんだ枯れ尾花だ。俺は欠伸まじりに台所へ向かう。
 紅茶を手に戻ってみると子供も布も消えていた。
	
▼海座頭という化け物がいる。

 道の向こうから小さな影が近付いていた。
「一曲吟じまする。ご所望、ご所望」
 盲い、杖を突いた老人である。
「所望?」
 老人は背中の琵琶を下ろし始めた。
 断るより速く、音が辺りを震わせる。瞬時に水が押し寄せ、俺は空気を求めて足掻いた。
	
▼煙々羅という化け物がいる。

 俺は紫煙で輪を拵え、税に入っていた。
 煙の重なりに柔らかい影が浮かび上がる。笑っている女の口元に見えた。
 記憶を探る俺を他所に黒電話が鳴り出す。
「なあ知ってたか?」
 訃報を伝える友人の言葉は遠く、俺は彼女のえくぼを思い出していた。
	
▼こそこそ岩という化け物がいる。

 拍子木の音が家中まで響いてくる。最近、不審火が絶えなかった。
「怖い、怖い」
 縁側を渡るしな俺は呟きを捉える。
「明日は我が身」
「大事ない。水神様がいらっしゃる」
 見回すが、誰の姿もなかった。井戸の傍に石が幾つか転がっている。
	
▼座敷坊主という化け物がいる。

「遊ぼう」
 親戚の子供だろうか。法事に付き合わされた挙句に子供の世話とは嫌になる。
「お母さんは?」
「話してる」
 仕方なく庭に放ってあったボールを子供と投げ合った。
「まだだよ。もう少しだけ」
 線香の煙が漂い、子供の姿は薄らいだ。
	
▼提灯お化けという化け物がいる。

 岐阜提灯を受け取りに俺は店のガラス戸へ手をかけた。しかし、軒に何か下がっている。
 破れた胴から舌を垂らし目玉を描いた提灯だった。
「おい?」
 留守なのか主人の返事はない。帳場に提灯が置かれ、お持ちくださいと紙が貼られていた。
	
▼猫又という化け物がいる。

「お母さんいる?」
 庭に祖母が佇んでいた。膝の猫を払い、俺は帳場へ向かう。だが、母は俺の話をみなまで聞かず、忙しいと言下に断じた。
 縁側に戻ってみると祖母の姿が見えない。
「あの婆さん。今夜が峠だよ」
 猫が話したのは、その一度きりだ。
	
▼一目入道という化け物がいる。

 その男は校庭に立っていた。片目が眼帯に覆われている。
 俺は男の素性を周囲へ尋ねた。だが、その度に男は消え失せる。
 再び俺は窓外へ目をやった。男は眼帯に手をかけていた。外し始める。
 目を逸らそうと努めるが体は微動だにしなかった。
	
▼幽霊傘という化け物がいる。

 シャッターの下りた店先で俺は煙草を喫んでいた。降り出した雨は弱まる気配もない。
「痛!」
 足元に傘が転がっている。渡りに船と開いた途端、腕が引かれ、足は浮き上がった。柄を離した俺は地面に尻餅を着く。
 傘は空へと遠ざかっていった。
	
《終》
 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。
 それをひもといてその怪異に戦慄する気持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。  寺田寅彦著「化け物の進化」より
	

[2014年8月24日] (c) 2014 ドーナツ