「中矢晧一。一年A組。十五番。……入部理由は?」
 そこは、陸上部の部室だった。
「足が速いから」
 顧問の教師は所在なげに俺を眺めている。
「速いんだ?」
「速いです」
 黒い表紙の帳簿を開き、教師は、俺の名前を記していた。板書に慣れた人間特有の妙にはっきりした筆跡である。
「じゃあ、まあ。明日の放課後、ここへ顔出してくれるかな?」
 それきり顔も上げず、テストの採点に余念がなかった。
	
 俺の通う中学校は、都心の近郊に位置している。偏差値は中の下、進学率は八割を切っていた。
 堂々たる三流校である。
「祖母ちゃん」
 俺は、祖母と二人暮らしだ。
「晧一。お帰りなさい。学校はどうだった?」
 風呂敷に包まれた荷物を抱え、祖母は難儀していた。俺のほうへ振り返るのにも苦労している。
「まあまあ」
 俺は祖母から荷物を取り上げた。軽いのに拍子抜けする。
「あら、ありがとう。でも、大事に扱ってね。お届けものだから」
 内職の和服らしかった。
「わかった」
 黒板塀の続く屋敷町を祖母と並んで歩く。ナンバースクールと目されていた時代の名残なのか中学校の周辺は閑静な住宅街だ。どこからか下手なピアノの音が響いてくる。
「お嬢さん、こんにちは」
 立派な門構えの前で祖母へ見返った女は訝しげだ。
「……ああ。また着物?」
 俺と同じ中学校の制服を着ている。
「はい。いつもお世話になっております」
 女は、頭を下げる祖母に掌を向けた。犬に『待て』を命じる仕草である。
 俺の顔は、怒りで歪んだ。
「お母さん! 着物!」
 祖母には一言もなく、通用口を潜って行く。
「綺麗なお嬢さんねえ」
 長い真っ直ぐな黒髪が日の光を弾いていた。
	
 十五分ほど待たされ、使用人が金と引き換えに着物を引き取る。
「今日は奮発してお肉にしようね?」
 俺は驚いていた。世の中には、あんなに大きな家へ住んでいる子供がいるのである。祖母が借家している市営住宅とはえらい違いだ。
 呼び出し音に耳を叩かれ、携帯端末へ手を伸ばす。
「どうかした?」
 画面を眺めている俺に祖母が話しかけてきた。
「明日の部活。中止だって」
 祖母は寡婦年金を受けていたが、家計は潤沢ではない。しかし、俺に高価な携帯端末を持たせていた。
『良いお家の子は変わっててもいいけれど、そうじゃない子は、みんなと同じにしなけりゃ駄目』
 それが祖母の人生訓である。食い扶持の稼げない俺は、従う他ない。
「そう。残念ね」
「うん」
 早く大人になりたかった。
	

[2014年 2月 22日] (c) 2014 ドーナツ