[2014年 3月 16日] (c) 2014 ドーナツ
「遅い」 部室へ顔を出した俺は、見知らぬ女から詰られた。 「グラウンドの整備とかあるから、もっと早めに出てきてくれる?」 女は携帯端末から顔を上げる。顎で切りそろえたショートカットに縁の太い眼鏡をかけていた。 「日直やってた」 俺の答えに首を傾げている。制服のリボンが胸の膨らみの上で揺れていた。 「……それで遅れたってこと?」 「うん」 「田神に聞いたんだけど、きみ。走りが速いから部に入りたいって言ったんだって?」 「田神?」 女は俺の顔を見やり、ため息を吐いている。 「顧問の名前なんだけど。大丈夫? ……それで、走るの速いわけ?」 俺は頷いた。 「それって基準は何?」 「基準?」 面倒な話をする女である。 「そう。どういう基準で速く走れると思ったわけ? クラスで一番だったとか?」 「一番じゃない」 「何なの、それ。もういいよ。馬鹿馬鹿しい」 顧問の使っていた机の引き出しを開け、女は銀色の光る物体を俺に投げつけた。 「着替えて」 次の瞬間には、携帯端末へ視線を落としている。開いた掌に載っていたのは、楕円形の番号票がついたロッカーの鍵だった。
校庭には、同学年と思しき生徒が数十名、練習着姿で立ち働いている。地面を平らに馴らしながら、文句を垂れていた。 「中矢!」 近付いてきた男を俺は訝しげに眺める。 「え? 覚えてない? 俺、同じクラスだよ。松川大介。席、おまえの前だし」 「……松川?」 「うわ! マジ? 自尊心、傷つくわー」 頻りに不満を漏らしていた。 「整備。しなくていいの?」 「ああ、これ?」 松川はトンボをチャンバラの構えで振り回す。 「もうほとんど終わってる。練習の後にも引いてるから適当でいいんだよ。……それはいいけど、中矢。随分、ゆっくりだったな?」 「日直」 「あ、そうか。マネージャーに言っておけば良かった。怒られた?」 頷いていると横合いから怒鳴られた。 「サボんな! コラー!」 松川の後頭部が思いきり叩かれる。練習着の色から鑑みるに上級生だった。 「すいませーん!」 大げさに頭を下げる松川の顔は増悪に歪んでいる。しかし、顔を上げた時には満面の笑みだ。上級生の平手が松川の額を追撃する。 「おまえも。遅っせえよ!」 俺は腹に拳を食らい、呻いた。これから毎日、これが続くんだなと半ば諦観する。だが、走れるなら何でも良かった。
[2014年 3月 16日] (c) 2014 ドーナツ