「遅い」
 部室へ顔を出した俺は、見知らぬ女から詰られた。
「グラウンドの整備とかあるから、もっと早めに出てきてくれる?」
 女は携帯端末から顔を上げる。顎で切りそろえたショートカットに縁の太い眼鏡をかけていた。
「日直やってた」
 俺の答えに首を傾げている。制服のリボンが胸の膨らみの上で揺れていた。
「……それで遅れたってこと?」
「うん」
「田神に聞いたんだけど、きみ。走りが速いから部に入りたいって言ったんだって?」
「田神?」
 女は俺の顔を見やり、ため息を吐いている。
「顧問の名前なんだけど。大丈夫? ……それで、走るの速いわけ?」
 俺は頷いた。
「それって基準は何?」
「基準?」
 面倒な話をする女である。
「そう。どういう基準で速く走れると思ったわけ? クラスで一番だったとか?」
「一番じゃない」
「何なの、それ。もういいよ。馬鹿馬鹿しい」
 顧問の使っていた机の引き出しを開け、女は銀色の光る物体を俺に投げつけた。
「着替えて」
 次の瞬間には、携帯端末へ視線を落としている。開いた掌に載っていたのは、楕円形の番号票がついたロッカーの鍵だった。
	
 校庭には、同学年と思しき生徒が数十名、練習着姿で立ち働いている。地面を平らに馴らしながら、文句を垂れていた。
「中矢!」
 近付いてきた男を俺は訝しげに眺める。
「え? 覚えてない? 俺、同じクラスだよ。松川大介。席、おまえの前だし」
「……松川?」
「うわ! マジ? 自尊心、傷つくわー」
 頻りに不満を漏らしていた。
「整備。しなくていいの?」
「ああ、これ?」
 松川はトンボをチャンバラの構えで振り回す。
「もうほとんど終わってる。練習の後にも引いてるから適当でいいんだよ。……それはいいけど、中矢。随分、ゆっくりだったな?」
「日直」
「あ、そうか。マネージャーに言っておけば良かった。怒られた?」
 頷いていると横合いから怒鳴られた。
「サボんな! コラー!」
 松川の後頭部が思いきり叩かれる。練習着の色から鑑みるに上級生だった。
「すいませーん!」
 大げさに頭を下げる松川の顔は増悪に歪んでいる。しかし、顔を上げた時には満面の笑みだ。上級生の平手が松川の額を追撃する。
「おまえも。遅っせえよ!」
 俺は腹に拳を食らい、呻いた。これから毎日、これが続くんだなと半ば諦観する。だが、走れるなら何でも良かった。
	

[2014年 3月 16日] (c) 2014 ドーナツ