「兄に恋人がいるらしいんです」
 女は開口一番そう言った。
「『恋人』ですか?」
 鈴木圭介は繰り返す。
 ここは探偵事務所の一室だ。『興信所』という名称が一般的だが、圭介はこちらのほうが気に入っている。
「ええ。兄はすごくまじめな人で、きっと騙されてるんです! お願いします! 兄を助けてください!」
 残念ながら日本には、公的な探偵のライセンスは存在していなかった。そのため人脈や信頼関係がより重要である。同業者間の連携も欠かせないものだ。
 圭介は己の評判に気を配っている。それが次の仕事に繋がるからだ。今、目の前にいる依頼人も以前、引き受けた事件の関係者の伝手である。
「まあまあ、そう興奮なさらず。どうか落ち着いてください。お話を最初から整理しましょうか。まず、お兄さんのお名前から教えていただけますか? それから、あなたのお名前も」
 女は若いが、愚かではないようだ。自分の話の不備に気付き、顔を赤らめる。
「……すみません。緊張してしまって、つい。こういうところへ来るのは初めてで」
「たいていの方が、そうですよ。気になさることはありません」
 女の名前は白石実加、兄は星野龍平といった。
「星野は旧姓です。三カ月前に結婚したんです、私」
 恥ずかしそうに結婚指輪を示している。
「それまでは、兄のマンションに二人で暮らしていました。両親が私の一人暮らしを許してくれなくて、それで」
「仲の良いご兄妹なんですね」
 圭介の言葉に実加は頷いた。
「はい! ……でも、最近、兄は私を避けるんです。それで私。不審に思って兄を尾けました」
「お兄さんを尾行された、ということですか?」
 圭介は驚き、思わず尋ねる。
「はい。だって兄が心配だったんです。そうしたら女物の高価な服や下着を買ってました。きっと相手の女に貢がされてるんですよ!」
「……ところで先程から気になっていたことがあります。お兄さんは独身ですね? 恋人がいらっしゃっても不都合はないように思えますが」
 実加は身を乗り出した。
「それはそうですけど。兄のマンションから、あの女が出てくるところを一度だけ見たことがあるんです。全然、兄のタイプじゃないし、それに私を見て逃げ出したんですよ。変だと思いませんか!」
 何ら事件性は感じられず、憶測ばかりである。
「白石さん。これは提案ですが、一度、お兄さんと話し合われてはいかがでしょう?」
「でも!」
 圭介は実加に料金の内訳を説明した。
「本格的な調査に入ってしまうと一日でこれだけの費用が掛かります。本日は相談料だけで結構です。よくお考えください」
 料金プランを眺め、実加は目を丸くしている。ゼロの山を前にして現実に立ち返ったのだろう。頭を下げてドアから出て行った。
	

[2014年 9月 6日] (c) 2014 ドーナツ