ドアの開く音がする。
 大振りの鞄を抱えた『彼女』は、無造作に床へ荷物を投げ出した。鞄の中に壊れやすい品はないのだろうか。下階から文句は来ないのかと心配になる乱暴な仕草だった。
 鞄はテレビの置かれた居間へ放っていたが、アクセサリーの類を外したり、着衣を緩めたりはしない。俺の期待を他所に壁の向こうの別室へと去って行った。戻ってくると、もう部屋着に着替えている。女が可愛いと勘違いしているタイプのデザインで露出度は低めだ。
 時折、テレビへリモコンをかざし、雑誌の紙面へ目をやっている。だが、俺にテレビの音は聞こえなかった。彼女は独り言か歌っているような様子を見せることもあるのだが、この場合も同様、音声は排除されている。
 この沈黙劇は、俺の頭の中だけの存在であろう彼女をより空虚な彼方へと追いやった。
 とはいえ、俺は、彼女の乳房が部屋着の中で下着に守られていないことを詳細な観察によって掴んでいた。気紛れに口元へ現れるえくぼについても熟知しており、有体に興味津々であったと断言できるだろう。
 爪の手入れが彼女の日課だった。若い女にしては短い。白い部分が、ほとんど残らなくなるまで爪を削っていた。
 淡く色付いた唇を少し開き、無心にやすりを動かしている。気に入らないのか眉を寄せ、その拍子に睫毛が震えた。額に刻まれた皺は表情が変わると消失している。
 彼女は、本当に綺麗な女だった。
	
「大学はどうだ?」
 母の墓参を終えた父と俺は、抹香臭い体をソファーに預け、テレビ画面へ向かっていた。祥月命日に両親の結婚式のフィルムを眺める。俺が物心ついた頃から父と続けてきた習慣だ。
「普通」
「小父さんとは上手くやってくれてるだろうな?」
 正しい名称は不明だが、遠縁の男を父は『小父さん』と呼んでいる。
「たぶん」
 画面の中では、ブライドメイドに傅かれた母が得意満面といった様子で客に笑顔を振りまいていた。ドレスはともかく、三人のブライドメイドの化粧はどこか野暮ったい。その中の一人はロングヘアで彼女に似ていなくもなかった。
「これ誰?」
 父は缶ビールをすすりながら、俺の指さすほうへ顔を向ける。
「ああ。名前は知らん。綺麗だよな」
「うん」
 黒髪は地味だが、美人であれば悪くなかった。
「あの部屋。幽霊が出るんだ。この子に似てる」
 俺はテイクアウトのから揚げに箸をつける。
「……そうか。じゃあ、パンツを見せてもらったか?」
「下着の?」
「他にあるのか?」
 説明するのが面倒だった俺は、曖昧な唸り声で言葉を濁した。
「見せてもらったほうがいいぞ。……たしか看護婦で久我山に住んでるって聞いたな」
「あの子?」
 父は頷いている。
「……看護婦。生きてるの?」
「生きてるんじゃないか? 母さんと同級だって言ってたからな。まだ四十半ばだろ」
 缶ビールの中身は温くなり始めていた。
「ミナ!」
 彼女は、母の呼びかけに微笑み返している。母と頬を寄せている『ミナ』は『彼女』に瓜二つだ。隣では赤ら顔の父が眠りこけていた。
	
 俺は彼女がドアを開き、鍵をかけるまでの数秒にある雑音が混じるのに気付いた。
 平坦なリズムの音楽と幼児と思われるキーの高い肉声、マイクを通した成人女性の指示も窺える。幼稚園か保育園の庭で遊戯が行われているのではないかと思われた。
『幽霊』であるらしき彼女が現れるのは、決まって午後八時である。しかし、幼児が遊戯に親しむのは午前中、もしくは午後の早い時間ではないだろうか。
 おそらく俺と彼女の時間帯は異なっているのだ。
	

[2014年 5月 22日] (c) 2014 ドーナツ