父は母の死後も部屋をそのままにしていた。几帳面な祖母のお蔭で埃ひとつなく保たれている。
 大型本は、本棚の最下段に納められていた。俺は、青空を背景に校舎がそびえるジャケットのアルバムを手に取る。修正は素人の手によるものなのか空の色は濁っていた。
 当時の高校のクラスの多さに驚く。AからFまで順に繰っていくと母の旧姓に行きついた。それでも『ミナ』というヒントがなければ、彼女に至れなかっただろう。校則によって適正な衣服、髪型を選ぶ自由を禁じるのは不合理だ。
	
 三ミリ方眼の紙面に彼女の部屋の間取りを作図してみる。壁を隔てた部分は想像だが、風呂、トイレ、キッチンなどの水回りがあるはずだ。
 久我山付近の不動産情報を携帯端末で検索する。類似する間取りの物件が六件ヒットした。そのうち二件は、築二十五年を過ぎている。しかし、その二件とも近くに保育園および幼稚園はなかった。ネット上の地図を確認しただけである。実情に沿っているのかは不明だ。
 俺は、いったい何を突き止めようとしているのか。彼女も若かった『ミナ』も存在しないであろう妄想の産物だった。
	
 ソファーの上で毛布に包まった俺はベッドを伺う。
 身を横たえている彼女の肩から薄い上掛けが滑り落ちようとしていた。こちらへ向けられた顔の、瞼の白に目を奪われる。
 ふと俺は考えた。彼女は今、素顔のはずだ。だが、変わらず美しい。写真写りの良し悪しを考慮しても同じ女とは思えなかった。この女は、『ミナ』ではないのだろうか。しかし、父とともに鑑賞した映像の中の面差しとは似ていた。特に『ミナ』と呼ばれた時、笑んだ顔に浮かんだえくぼは彼女と同じ位置である。
 相違点ばかりだ。にも拘わらず、俺は彼女と『ミナ』の間に存在しない共通項を探し、躍起になっている。不本意なことに今や俺の中で『ミナ』と彼女が離れがたく、貼りついてしまっていた。
	
 そこは、七階建ての鉄筋コンクリートマンションだった。
 古びているが、入口に管理室を設けた贅沢な作りの集合住宅である。迷った末、俺はマンションから離れた。せめて次の地下鉄の駅まで歩こうと周囲を眺める。
 俺は、何を求めていたのだろう。四十代の『彼女』に会うつもりなのか。冗談じゃない。
 突如、子供の声と調子外れの童謡が流れてきた。地図に記されない保育施設が存在しているのだろうか。音楽に導かれながら閑静な住宅街を彷徨った。角を曲がるたびに近付いては遠のく音の源泉は杳としてしれない。
 不意に現れたコンビニエンスストアに入り、水のペットボトルを購入した。
「あの。この辺に幼稚園か保育園があるはずなんですが?」
 中年の店員は、レジのカウンター越しに俺を検分している。
「道案内は業務外。キリがないから」
 お説ごもっともだ。
	
 店を出た俺の好奇心はすっかり萎えていた。しかし、好都合である。保育施設を求めて住宅街を闊歩する二十歳前後の男というのは些か外聞に拘わった。当今の情勢を鑑みれば、警官に通報されても文句は言えない。
 動機を尋ねられた俺は何と答えるだろう。
『幽霊が部屋の中を歩き回るんです。いえ、困ってはいないんですけど。素性を知りたくて、つい』
 最悪だ。
	
 公園のベンチに座り、ペットボトルの封を切る。歪な五角形の土地に詰め込まれた遊具は窮屈そうだが、利用者は幼児連れの母親と俺だけだった。狭隘ながら閑散と静まり返っている。
 俺は見るともなしに携帯端末を操作し、近隣の地図を呼び出した。
「やめてもらえませんか」
 顔を上げると先刻の母親である。一歳くらいの幼児を腕に抱き、俺を見下ろしていた。
「写真。消してください」
 幼児はチューリップのアップリケのスカートを履いている。その時、子供が女児であることに俺は初めて気が付いた。
「写真?」
「撮ってたでしょう? とぼけないで!」
 俺は、女に携帯端末を差し出す。
「フォルダを見てください。やり方、わかります?」
 驚いていた女の顔に怒りが走った。
「バカにしないでよ!」
 引っ手繰ったかと思うと親の仇よろしく画面を叩いている。操作に支障はないようだ。しばらく弄って気が済んだのか俺に携帯端末を返して寄越す。
「今朝、不審者の連絡があったのよ。最近いるでしょ? 変な人」
 女はバツが悪そうだ。 
「俺。この辺の人間じゃないんで」
 再び、俺は携帯端末へ向かう。
「……もうお昼食べた? あっちにファミレスがあるんだけど」
 歩き始めた女に従い、俺はベンチから腰を上げた。 
	
「子供がいると入れる店って決まっちゃうじゃない」
 向かいの席で女は、ため息を吐く。
「泣いたりすると嫌な顔されるし」
 平日のファミリーレストランは閑散としていた。客は、俺と母子の他に定年を迎えたと思しき老年の男だけである。
「そうなんですか」
 答えながら俺は、磨きの甘いテーブルに並ぶハンバーグステーキとオムライスを眺めた。この手の店に入った場合、ハンバーグは最も地雷の少ない選択である。フォークとナイフを握り、正体不明のソースとともにハンバーグを口へ運んだ。
「美味しい?」
 会話を続ける女に俺は顔を上げる。
「普通です」
 食事中に話すのは面倒だった。俺の答えに諦めたのか呆れたのか。女はオムライスを小さく崩し、子供に食べさせようと腐心し始めた。子供は俺の顔を眺めたまま口を開こうとしない。
「お腹空いてるでしょ? 食べて」
 頑な拒否だ。子供というものは動物に似ている。人間みな動物ではあるが、そういう意味合いではなかった。俺は投稿サイトに上がっているペット関連の動画を思い浮かべる。ああいった映像の面白さは、動物の真摯さに由来するものだ。彼らはふざけない。笑いもしない。状況をただそのまま受け入れているだけだ。
 子供も同じことで大人の側が剽軽と捉えているに過ぎない。子供の口元に差し出されているスプーンの中身は、脂質、糖質、タンパク質、化学物質の塊であり、おそらく有害なのだろう。体内に取り込むには危険な物質なのだ。だからこそ子供は拒んでいる。しかし、これを食し、成長しなければ、人間として成立し得ないのだ。
「どうして食べないの? はい、口を開けて」
 女はスプーンを小さく揺すり、子供に食事をさせようと努めている。子供が『水』と叫び声を上げるまで続けるつもりだろう。
「……そういうことか」
 急に席を立った俺に女は驚いている。俺は財布から小銭を取り出し、皿の脇に置いた。
「え? いいわよ、奢るから」
 女は、スプーンを掴んだまま口を薄く開け、俺を上目使いに見ている。
「いえ。授業料です」
 俺はテーブルから離れた。
	
 幽霊にも研修期間があるのではないか。閃いた考えに興奮し、俺は頭痛と吐き気を催した。
 そうであれば、彼女の『母親』は誰だろう。傅くに足る先輩はいるのだろうか。
	
 ファミリーレストランは表通り沿いに建っていた。俺は再び、地下鉄の駅へ向かう正規ルートへと戻る。だが、消化不良のハンバーグを体外に排出する必要に迫られていた。
 俺は目についた公共建築へ飛び込む。門扉に図書館である由が記されていた。
	
 洗面台で口を濯ぎ、鏡を覗き込む。『彼女』も映り込んでいることを願うが、徒労だった。顎に吐しゃ物の名残を見つけ、擦り落とす。
 トイレを出ると古書の臭いが鼻についた。空っぽの胃にこの刺激は堪える。まだ怠い俺は書籍を避け、視聴覚コーナーの一角へ逃げ込んだ。パーティションで区切られ、端末が並ぶ部屋を見回し、空いている席に腰かける。電子化された新聞、雑誌を検索できるようだ。
 仕切りを良いことに鞄からペットボトルを取り出す。水が喉を過ぎる感触で、どうにか気分も落ち着いてきた。先刻の突拍子もない思い付きを吟味する。馬鹿馬鹿しさに笑いが漏れた。
 当てがあるわけではなかったが、画面のガイド通りに端末の操作を行う。センス云々以前の無味乾燥な画面構成だ。
 全国紙と地方紙、地元公共団体の情報誌などの中によく知られた週刊誌が混じって表示される。下世話な記事を根拠に乏しい取材で掲載する類の情報誌だ。
 この図書館で電子化が始められたと思しき十五年ほど前の日付が一月分、画面に行列している。内容は、リアルタイムでの情報としては何の価値も感じられなかった。しかし、現在から過去を振り返る風俗の集大成と考えれば面白いかもしれない。
 誌面には、今と変わらず数々の事件、スキャンダルが列挙されていた。その中に目についた殺人事件がある。概要は、今で言うところのストーカー事案だ。
	
 被害者の名は『桜井ミナ』と言う。
 某月某日、桜井ミナは、夜勤明けに同僚男性から待ち伏せを受けた。これまでにも数度、同僚男性から待ち伏せされており、その度に復縁を迫られていた。ミナはこれに応じず、口論となる。予め刃物を用意していた同僚男性は激高し、ミナを数十回に渡り、切りつけた。首と肩に受けた刺突が致命傷となり、桜井ミナは死亡した。
 掲載されている写真は、母の卒業アルバムの写真とほぼ同一に見える。ミナは死んでいるらしかった。
	

[2014年 5月 22日] (c) 2014 ドーナツ