[2014年 5月 22日] (c) 2014 ドーナツ
自室のあるアパートの姿が近付いてくる。 「こんにちは」 アパートの外階段の手すりに寄りかかり、見知らぬ男が煙草を喫っていた。 「……こんにちは」 「ここって住んでる人いたんだな」 年齢は三十代だろうか。量販店で見覚えのあるジャケットにジーンズを履いていた。 「留守番です」 「え? ああ、勝手に入ってごめんね。近くに住んでるんだけど、奥さんが身重なんだ。誰もいないと思ってたから、いつも使わせてもらってた」 男は慌てて尻ポケットから携帯灰皿を取り出す。 「吸い殻は、ちゃんと持ち帰るから。もうちょっと居させてよ」 「管理までは頼まれてないんで」 『いつも』と男は言ったが、俺は覚えがなかった。 「ここ。もうすぐ取り壊されるんだろ? マンションを新築するんだって? やっぱり土地持ちって違うよね。羽振りが良い」 階段を上がり切ろうとしていた俺は仕方なく、振り向く。 「子供ができると金が要るでしょ? だから、そういうの考えるんだよな」 「そうなんですか」 「うん。女の子だって言うしさ。ほら。今、わかるんだよ。生まれないでも」 男は独特の薄気味悪さを放っていた。一見、小奇麗で容姿は凡庸、会話内容も常識的ではある。だが、それらを凌駕する体臭のようなものを纏っていた。抑えようもなく、吐しゃ物の臭いが甦ってくる。 俺は胃液と混じり合い、中途半端に消化された肉片を思い出していた。 「今の奥さんで付き合ったの三人目かな。理想の美人ってわけじゃないけど、引き際が肝心だから」 会釈して、俺はその場を立ち去る。 「バイバイ」 男は大げさに手を振っていた。
その晩から『彼女』は部屋に現れなくなった。俺は未練がましくソファーで眠り、訪いを待つ。しかし、扉の開く音は、もう聞こえなかった。
「本当にもう出ない?」 清子のアパートは実兄とのシェアである。ラブホテルを利用するほど裕福でもなかった。幽霊という障害がなくなったのだから構わないと思い、俺は清子を自室に誘ってみる。 「見えないんだろ? どっちだって同じじゃないか?」 「そういう問題じゃないんだって」 清子が何を恐れているのか見当もつかなかった。しかし、このオカルト的状況を俺より正しい方向に満喫していることはたしかだろう。 「警察? 嫌だ。何かあったのかな?」 前方へ視線を戻すと数人の警官による交通規制が行われていた。
足止めを食らった人波の中で携帯端末を操る音が、そこここに響く。 「殺人事件らしいよ」 潜められた声にどこか嬉しそうな悲鳴が上がった。その横をパトカーが通り過ぎる。動くものを追う人間の心理に従い、俺は車窓を眺めた。後部窓へ振り向いた男に会釈される。彼は、アパートの外階段で見かけた男によく似ていた。 忽ち交通規制は解かれ、進もうとしたが、清子は動こうとしない。 「ダメ。行けないよ」 彼女の顔は真っ青だ。 「無理」 仕方なく目についたチェーンのコーヒー専門店を指差す。 「あそこでいい?」 清子は頷いていた。
思い出話を始めた清子を見て、別れたいんだなと察した。付き合ってから三月弱では、話題が尽きるのも早い。考えてみれば、これといった場所へ出かけたことさえなかった。 「思い切って聞くけど」 清子は、シナモンやらキャラメルやらの複雑なトッピングの施されたコーヒーを啜っている。 「さっき挨拶されてたよね? パトカーの人に」 「された」 「知り合い?」 俺は清子に二週間ほど前の顛末を話した。 「あれって犯人じゃない?」 「……さあ」 清子は携帯端末の写真を示す。 「この人?」 「……似ているかな?」 一度、会ったきりの相手だ。鮮明には思い出せない。 「でも、殺人犯と話したかもしれないわけでしょ?」 可能性はある。 「こういうのって黙ってていいのかな? 警察に話さなくて大丈夫?」 「平気だろ? 関係ないよ」 ニュースによれば、被疑者は既に確保されていた。第一、パトカーに同乗していた男が犯人かどうかもわからない。同乗していた男とアパートの外階段で出会った男が同一かどうかは、より不透明だ。 「何も感じない?」 「何を?」 清子は席を立つ。 「私、帰る」 俺は頷いた。
コーヒーを流し込み、携帯端末を流れるニュースのホットラインから事件の関連記事を漁る。 逮捕された男は三十八歳、改装業を営んでいた。現在のところ、自宅から発見された白骨死体は三体、骨盤の形状からいずれも女性であることがわかっている。 「三人目」 『理想の美人ではない』と男は言っていた。件の男は、被疑者と同一人物だろうか。そうだとすれば、法を犯しても夢の女には出会えないのか。何れにしても彼に比べ、俺の調査の道行は微々たるものだ。
その後、一週間の間に事件の様々な情報が飛び交う。 死体は自然に白骨化したものではなかった。死亡直後に男が肉を剥ぎ、内臓を取り去って骨だけを薬剤に漬け、丹念に洗浄したものだった。 骨以外の部位は一センチ以下の肉片へ切り刻み、数回に分けて川へ投棄していたらしい。警察は被疑者の自白に基づき、川を浚っている真っ最中だ。 ひき肉の混じった吐瀉物の映像が甦り、俺はトイレに飛び込む。胃の腑の中身を吐き出した。コーヒーを飲んだきりの乏しい内容物は、ほとんどが胃液である。 戻ってみると通夜の様子が画面を賑わしている。被害者の所持品は車の免許から下着に至るまで保存されていた。身元は速やかに特定されている。
[2014年 5月 22日] (c) 2014 ドーナツ