事件のだいぶ前から母は精神に異常をきたしていた。
 四六時中、家の中を歩き回り、ドアというドアを開け放つ。部屋をひとつずつ覗き、俺を見て首を傾げていた。
「いつまでいるの? 帰りなさい」
 顔を会わせる度に、そう言う。
「母さん。ここは俺の家だよ。俺は、あんたの息子なんだって」
 彼女は笑って取り合わなかった。
「帰りなさい」
 次に家中のコンセントを抜き、ブレーカーを落とす。窓のブラインドを下ろしている母は、とても楽しそうだ。家が隅々まで暗闇に包まれる。すべてを果たし終えた彼女は、ようやく安堵し、口遊みながら自室へ戻っていった。
『我の神に近づかん よしや優に忍びなん われ歌ふべき吾の神に 近づかましともならん』
「……話を聞けよ。クソババア」
 母が眠った頃合いを見計らい、家政婦が家内を元通りに正す。これが日に何回となく繰り返されていた。
 その中で俺と妹は暮らしていたのである。

 忘れもしない八月十四日の暑熱の中、母は妹の名を呼んだ。三階のバルコニーから手招きしている。母が娘の名を口にしたのは、何か月ぶりだったろうか。
 妹は母屋へ駆け寄ろうとする。母の笑顔が俺に怖気を振わせた。俺は思わず、妹に叫んだ。
「行くな!」
「何で? お母さんが呼んでるよ」
 足を緩めない妹を追い、俺は彼女を突き飛ばす。すぐ傍に重量のある物体が落下した。飛沫が俺と妹を見舞う。血と肉片に塗れながら、俺は母の亡骸を見つめていた。

 母の死は、俺に悲しみよりも安堵を与えた。それは父も同じであったように思う。父は、ますます家を空けるようになった。
 妹だけは母の喪に服し、涙にくれる。
「私がちゃんとやってたらよかった。もっと早くやればよかった」
 妹の言葉は、何を意味していたのか。妹に尋ねたが、彼女は泣くだけだった。
 ほどなく妹は、付近の商店から窃盗を行うようになる。いわゆる『万引き』だ。今思えば、それは彼女が正気を保つための代償行為だったのだろう。だが、当時の俺は妹が心底、恐ろしかった。ネジの緩んだ妹を持つ兄という役回りを逃れるため率先して窃盗に加わる。能動的に振舞い、彼女を俺に逆らえず従っている憐れな共犯者に仕立て上げた。
 窃盗ではなく、『万引き』だと思いたかったのである。誰もがやっているあたり前の行為だと考えたかった。
 警察に二回ほど突き出される頃には、父が通報しなかった店主に謝礼を払っているとの噂が広がる。店主たちは、俺や妹の盗んだものや盗んでもいないものを帳簿へ記すだけになった。

 初潮を切欠に妹の犯罪行為は終わりを告げる。
 妹は頻繁に教会へ通うようになり、俺は日常を取り戻した。

「本気なの?」
 父は面喰った顔で妹を眺める。
「うん」
 来春から寮のあるキリスト教系の中学校に入学したいと言う。父と俺は顔を見合わせた。宗教が悪いわけではないが、今の状況では歓迎できない。
「県外だし、寮に入るつもり」
「通うんじゃなくて?」
 妹は頷いた。
「そう」
 ほぼ二つ返事で父は妹の申し出を承諾する。彼女の存在に父も俺も消耗しきっていた。碌な反対もせずに送り出す。
 父は、妹が家を出てから一月もしないうちに内縁の妻と籍を入れた。相手は公園で見かけた女と同一人物である。彼女はまたもや、妊娠していた。父が優秀な種馬であることは、疑いようもない。
 義母は、聡明な人柄で俺の母親になろうなどとはしなかった。家事は引き続き家政婦が担っており、俺と彼女はすれ違いざまに挨拶を交わすだけの仲である。近くで見る彼女は、思っていたよりも若かった。
	

[2014年8月10日] (c) 2014 ドーナツ